『ロッキー4』のラスト
試合が終わったあと、ロッキーは、ここでは2人の男が本気で殴り合っていた、でも何千万人もの人間が殺し合うよりは、その方がまだましだ、という趣旨のことを言う
そこにはスポーツの本質の一端があるように思う
人間は争いそのものをなくせない
感情も、対立も、国家の面子も、そう簡単には消えない
それでも、それを殺し合いではなく、ルールの中の競技に置き換えようとしてきた
スポーツには、そういう人類の知恵が入っている
だから本来、世界レベルのスポーツの祭典は、ただのイベントではない
オリンピックも、WBCも、サッカーワールドカップも、国と国が武器ではなく、技術や身体能力や精神力を競い合う場であるはずだ
勝っても負けても、終われば相手を称える
少なくとも、その形を守ろうとする意志がある
そこに意味があるのだと思う
自分も、そういうものを楽しみたい
余計な曇りなく、ただ純粋に楽しみたい
本当は、それでいいはずなのである
でも現実には、世界のどこかで戦争や紛争が起きている
その状態で、スポーツの祭典だけを切り離して、何事もなかったように楽しめるかというと、自分は少し難しい
楽しんではいけないと言いたいわけではない
ただ、心のどこかが曇る
それはたぶん、多くの人々が持っている感覚なのだと思う
「戦争や紛争が起きている間は、オリンピックも万博も開かない」
そんな国際ルールは、現実にはかなり難しいだろう
理想論だと言われるかもしれない
でも、そこまで言いたくなるくらい、今は戦争があまりにも当たり前の手段となってきている
その違和感だけは、持ち続けたい
いちばん怖いのは、子どもたちがそれを見て、国と国が揉めたら最後は戦争になるものだと受け止めてしまうことで
それが普通の選択肢のひとつのように見えてしまうことだ
そうならないようにする責任は、やはり大人の側にある
『ロッキー4』の最後には、もうひとつ忘れられない言葉がある
“If I can change, and you can change, everybody can change!”
少し青臭い
でも、あの映画が最後に言いたかったのは、勝敗ではなくそこだった
殴り合いで、勝った負けたで終わるのではなく、変わる可能性を信じること
敵と味方のままで終わらないこと
スポーツが本当に示せる価値も、そこにある
ぶつかり合うなら、殺し合いではなく競い合いで
そして、競い合った先に、相手もまた変わり得る人間だと知ること
その最低限の理性だけは、何としても手放してはいけない
オリンピックも、WBCも、サッカーワールドカップも、心から楽しみたい
本当に楽しみたい
だからこそ、大人は、子どもたちに戦争を当たり前の手段として見せてはいけない
人は変われるのだと、言葉ではなく、世界のあり方で示さなければならないのだと思う

