マイノリティ憑依
という言葉が10年以上前に流行ったことがあった
少数者の側に立とうとする人間を、
どこか冷笑的に批判するための言葉だった
自分はあの言葉にずっと違和感があった
むしろ気持ち悪いのは、
マイノリティ憑依ではなく、
マジョリティ憑依の方ではないかと思う
人間は誰でも、どこかに少数者的な要素を持っている
性格かもしれないし、育った環境かもしれない
能力や容姿、家庭の事情かもしれない
傷ついた経験や、言葉にできない生きづらさかもしれない
完全に多数派の側だけで生きている人間なんていない
だから、
弱い立場に置かれた人、
いつも割を食う人、
優しいのに押し切られてしまう人に
シンパシーを感じるのは自然なことだと思う
むしろ、
「みんなそうだから」
「普通はそうだろう」
「自己責任じゃないか」
そんなふうに多数派の論理に無自覚に乗って、
弱い立場の人間をさらに追い込む方が、
よほど鈍感で醜い
そして厄介なのは、
SNSが本来、少数意見を発信するための新しい道具になり得たはずなのに、
いまではむしろ、
マジョリティの意見にドライブをかける装置に成り下がっているように見えることだ
本当なら、
テレビや新聞では拾われなかった小さな声や、
見過ごされてきた違和感を可視化する場所にもなれたはずだった
けれど現実には、
声の大きい意見、
わかりやすく断定できる言葉、
誰かを叩くことで一体感を得るような空気の方が、
はるかに拡散しやすい
そのせいか、最近は少数派の側が、
どこか諦めているようにも見える
頑張っても世の中は変わらない
言っても無駄だ
どうせ大きな流れには勝てない
そんな言葉を、巷でもよく聞くようになった
確かにそうなのかもしれない
今日言ったことが、明日すぐ何かを変えるわけではない
正しいことを言った人が報われるとも限らない
むしろ疲弊して、黙ってしまう方が多いだろう
それでも、
今この瞬間に世の中が変わらなくても、
未来の世の中のために地道にやっていくこと、
声を上げること、
想像力を手放さないこと、
それ自体が生きた証になるのではないか
大きな変化は起こせなくても、
あの時、誰かが諦めずに言葉を残していた
誰かが少数派の側に立とうとしていた
その痕跡が、後からじわじわ効いてくることはある
人は誰でも、
いつかどこかで少数者になる
その時に必要なのは、
「昔からそうだった」で片づける世の中ではなく、
小さくても抗おうとした痕跡が、
ちゃんと残っている世の中だと思う
もちろん、
安全圏にいながら当事者を代弁した気になって、
そこからポジショントークを展開するのは違う
それは共感ではなく、自己演出に近い
でも、そういう胡散臭さがあるからといって、
弱い立場の人に寄り添おうとする姿勢そのものまで
冷笑していい理由にはならない
繰り返し言う
今すぐ世の中は変わらないかもしれない
それでも、未来のためにやる
それが生きた証になる

